母の終活

 

83歳になる母が大動脈乖離で緊急入院をしたという連絡が入ったのはちょうど、翌日には愛知にある実家に一泊をしてから横浜へ帰ろうかという九州出張の最終日であった。

 

商談もすみ、美味しいお酒を飲んで「さあ、寝るか。」というタイミングだったのだが、その瞬間から酔いは覚め、浅い眠りをへて始発の新幹線で名古屋にむかった。

 

病院のHCU病室にいる母は想像していたよりはしっかりとした様子で、話もできたが流石にぐったりはしていた。

 

医師からの説明によると大動脈剥離とは3層あるうちの大動脈の第2層目にあたる内層が剥離する状態ということだが、幸いにも外層には及んでいないために、一命はとりとめ、この剥離が自然に癒着するのをまてば2週間ほどで退院できると聞き、ほっと胸をなでおろしたのだ。

 

しかし、問題がひとつ浮上する。母は若い時の腎臓病で片側の腎臓を摘出したために腎臓がひとつしかない。加えて胆嚢には胆石もかかえていることから腎機能が急激に悪化して、血液に菌汚染があるということだった。

 

このため、2週間の絶食治療を行うことになった。水分の摂取と生理食塩水の点滴と共に、その効果に期待を寄せた。

1週間ほどして訪ねると、母の肌は赤ん坊のようにツヤツヤとしており、顔色も良いため、これはうまくいくかもしれないと感じた。絶食と飲水、生理食塩水の投与の効果だと思う。

絶食治療中の母:顔色もよくなった

 

しかし、相変わらず腎臓の値はよくなく、排尿もないため腎機能の低下は続いているようだ。医師からは透析の可能性についての言及があったのだが、これについては母自身から「透析の必要はなく、このまま自然に逝けるのであれば逝きたい。」という申し出があり、私も家族もこれに同意をした。

 

透析担当者からはその後、親身に透析を受ければまだ永らえる可能性があることを説得されたそうだが、母の意思は固く。ありがたい話だが、私の生き方を貫きたいという申し出をし、担当医師もその意をくんでくれることになった。医師からは、土井さんのような選択をする方は希ではあるが、最後は家に帰って自然に任せるという土井さんの意思を尊重したい。と言ってくれたそうだ。近所の開業医が往診と最後の緩和ケアをやってくれるので、その紹介状も書いていただけることになった。

まだ、お若い先生だが、丁寧に症状とそれについての処置方法を説明してくれたために母はこの先生がお気にいりになり、「この先生だったのもラッキー」と喜んでいる。

 

母は終戦時、8歳の時に、「平壌」今の北朝鮮・ピョンヤンから家族で引き揚げてきた。途中、ロシア兵の略奪にあったり、引揚船では栄養失調、不衛生から亡くなる方もいたらしい。祖父は引き揚げ船に乗る前に醤油を一壜飲んで半病人となって右シベリア、左引き揚げと選別されるところ、辛うじて引き揚げ船に乗り込むことができたということだ。引揚げ後の居候先での貧乏や苦労話を、私もポツポツと聞きながら育ったため、母の幼少期に過酷なことがあったことは承知をしていた。そんな過酷な体験が功をそうしたのか、もともとそういった性格なのか、母は繊細ではあるけれども肚が座っているところがあり、私が失業を経て開業をする時も「今の日本で餓死することはないだろうから。大丈夫。」という言葉を贈ってくれた。

 

今回の自分の幕引きについても、訃報を打つ先を細かに妹に指示をだしながら、葬式会社の連絡先、葬式のグレード、はては私の喪服の心配まで気をまわすような、その仕切り屋ぶりに、時には笑いもおきながら、皆で母に寄り添っている。

 

今朝は電話で「昨日一人夜中に笑ってしまったんだけど、私って腎臓が片方ってことは、その腎臓はだよ、53年二役をやったということだから、ひと役にしたら106年働いてくれたってことだよ。そう思ったら笑えて、また、よくやってくれたね~。って腎臓に感謝したよ。」という受けてよいやらわからない「笑い話」を提供してくれる。

 

カッコつけで、サービス精神旺盛で、その割に一度言ったらひかない頑固さ。まあ、自分もかなりの部分をこの人から受け継いだな。と思う。

 

病院での処置はもうすぐ終了するだろう。母念願の家に帰る日はそう遠くないはずだ。

 

そして、病院をでたら、「あんたが言うように塩水と食事療法やってみるわ。これで効いたら、あんたの商売のPRにもなるな~」と言ってくれている。

かなり状況は厳しいが、僕ら家族はまだ希望を捨ててはいない。もう少し、母の笑い話につきあいたいのだ。今も母はめそめそしていない。今までの人生に感謝し、僕たちの存在に感謝してくれている。だから息子である自分も最後までめそめはしないと、心に決めている。