もつべきは異友かな

自分の人生は個性豊かな友によって彩られているが、その中でも異彩を放つ友がいる。

畏友の意味するところは、尊敬する友だが、「異友」は尊敬するとともに異なる世界観をもつ友とも言うべき、自分の造語である。

その異友が久しぶりに訪ねてくれた。彼の名前は浅井明朝。氏のことを知る人は多いが、一般的な価値観にはおさまりきらないこの男は、僕にとっては時にまぶしく(頭のことではない、笑)、時に理解不能な存在だ。

岩手で時給自足の生活を送っているかと思えば、全国各地の被災現場にボランティアとして働くこともあり、今は、静岡のお茶農家さんの居候をしているという、まったくリアルガチなフーテンの寅さんみたいな人なのだが、彼のモノを見分ける嗅覚は鋭い。

この人に会うと自分の日常が揺さぶられる、せっかく築いてきた価値観や小さなプライドがいかにもチンケなものにも思えてもしまう。

彼が指摘する現代生活の虚妄の中に自分もどっぷりと浸かっているし、自分の商売のアキレス健についても見通されているような気さえしてしまうのだ。
昨日もたっぷりと浅井節を拝聴したが、それは僕にとっては苦い薬のようなもので、ふやけた自己を顧みる良薬ともなるような話だった。

彼と付き合うにはこちらにもエネルギーが必要で、無難ではいられない。彼は言う、無難ではいけないと、その反対、難が有る状態が、有難いを生むのだと。

また、現代人は自分のトリセツを持たない人が多いとも。自分のトリセツがわからないから、わかりやすい情報に飛びついて損を見る。自分のトリセツと塩梅をもつことが大事だと。

独特の言い回しで語る浅井氏は、時に高僧のように見えなくもない。

右から浅井氏、杉本園杉本氏、モギチャン、塩G



彼は昨日、新しいご縁を紹介してくれた。それが静岡の無農薬茶の杉本園さんだ。彼が紹介してくれるところにハズレはない。どれも本物。会津のアサクラオイルさんとのご縁も彼がつないでくれたものだ。

近所の友達つきあいも大切だが、たまに風のように来て、日常を揺らしてくれる異友の存在は有難く、また得難いものだと思っている。