その時に笑える人が、灯りを消さないこと

その時に笑える人が、灯りを消さないこと

楽しさと苦しさは同時に存在する|弱さとともに生きる社会について

家族と過ごす穏やかな時間のなかで、ふと心に浮かぶことがあります。
楽しいのに、どこか苦しい。
すぐそばに不安を抱える人がいるとき、自分だけ笑っていていいのだろうか――。
この記事では、楽しさと苦しさが同時に存在すること、 そして弱さとともに生きる社会について、静かに考えていきます。

目次

お正月の穏やかな時間のなかで感じたこと

今年のお正月は、ありがたいことに、家族と穏やかで楽しい時間を過ごしました。

笑って、美味しいごはんを食べて、「ああ、幸せだな」と思える瞬間が、ちゃんとある。

でもその一方で、家族のなかには不安や心配事もあって、 楽しさの横に、苦しさがある。

完全に晴れた空ではなく、どこかに薄い靄がかかっているような感覚がありました。

楽しいのに苦しいと感じる理由

こういうとき、心のなかに小さな問いが浮かびます。

自分は今、楽しくていいのだろうか。
苦しんでいる人がすぐそばにいるのに、何もできない自分は、ここで笑っていていいのだろうか。

楽しい時間があること自体は悪いことではないはずなのに、 誰かの苦しみに気づいているからこそ、素直に軽やかにはなれない。

楽しさと苦しさは、きれいに分けられるものではないのだと思います。

何もできない自分と向き合うつらさ

何かをしてあげたい気持ちはあります。

けれど、できることは限られています。

  • 言葉をかけても届かないことがある
  • 手を差し伸べたつもりが、逆に傷つけてしまうこともある
  • そばにいても、苦しみを代わることはできない

その「何もできない感じ」と向き合うこと自体が、実はかなりつらいものです。

できないことを認めるのは、無関心になることではありません。
むしろ、相手の痛みを軽く扱わないための、静かな誠実さなのかもしれません。

弱さを切り捨てない社会で暮らしたい

それでも私は、弱さを切り捨てる社会ではなく、 弱さとともに生きる社会で暮らしたいと思っています。

なぜなら、いつでも自分だって弱くなる存在だからです。

元気な人だけが前に進める社会ではなく、 立ち止まっている人が「そこにいていい」と言われる社会。

強くない日があってもいい。笑えない日があってもいい。
そんな前提の上に立つ社会のほうが、ずっと人にやさしい気がします。

回復しなくてもいていい場所の大切さ

何かを成し遂げなくても、回復しなくても、笑えなくても、 ただ生きていることが許される場所

そんな安全地帯があれば、誰にでも回復のチャンスはあるはずです。

  • 元気でなくても責められない
  • 役に立たなくても排除されない
  • 立ち止まっていても存在を認めてもらえる

人は、安心できる場所があってこそ、少しずつ力を取り戻していけるのかもしれません。

誰かを救うのではなく、ともにいること

誰かを救うなんてことは、上から目線で、自分にはできません。

できるのは、せいぜいこのくらいです。

  • 一緒にいること
  • 一緒に考えること
  • 少しだけ手を貸すこと

それは大きなことではないかもしれません。

でも、苦しんでいる人の存在を、なかったことにしない。 その姿勢には、たしかな意味があるように思います。

楽しさと苦しさが同じ世界にあるということ

楽しさと苦しさは、同じ世界に同時に存在します。

笑いながら、心が痛むことがあってもいい。

完全にハッピーではない状態を抱えたまま、生きていてもいい。

誰かの苦しみを完全には引き受けられなくても、
その存在を忘れずにいること。
そのときに笑える人が、灯りを消さないこと。
それが、ともに生きるということなのかもしれません。

まとめ|灯りを消さずに、ともに生きる

私たちは、誰かの苦しみをすべて取り除くことはできません。

でも、忘れないことはできる。ともにいることはできる。灯りを消さないことはできる。

そしてそれは、決して小さすぎることではないのだと思います。

弱さを抱えたままでも、生きていていい。
楽しさと苦しさの両方を抱えながらでも、ともに暮らしていける。
そんな社会を、今日も静かに願っています。

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